隅田川にかかる橋
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更新日:2016年1月5日
隅田川に架かる橋は、さまざまなタイプのデザインと構造で設計され、一つとして同じ形の橋はありません。まさに「橋の展覧会」といえ、当時の技術者の心意気が感じられるものばかりです。
隅田川に架かる橋
白髭橋
竣工:昭和6年(鋼アーチ、鋼トラス桁、橋長168.8m、幅員22.1m)
「明治通り」にあり、橋名は墨田区にある白髭神社に由来している。初めて架橋されたのは1913年(大正3年)。隅田川では、最も古い渡し舟と言われている「橋場の渡し」のあった場所で、平安時代の歌人である在原業平が渡ったとも言われている。
桜橋
竣工:昭和60年(鋼箱桁、橋長169.5m、幅員12m)
台東区と墨田区の姉妹提携事業として1985年(昭和60年)に完成したX型の橋で、隅田川唯一の歩行者専用橋である。春には両岸の隅田公園に見事な千本桜が咲き、たくさんの花見客でにぎわいを見せる。
言問橋
竣工:昭和3年(ゲルバー式鋼板桁、橋長236.8m、幅員22.0m)
「言問通り」に接しており、橋名は、在原業平の『名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと』との歌に由来すると言われている。かつて、この橋の上流には「竹屋の渡し」、下流には「山の宿の渡し」(別名:枕橋の渡し)と呼ばれた渡し舟があった。
吾妻橋
竣工:昭和6年(鋼アーチ桁、橋長150.3m、幅員20.0m)
「雷門通り」にあり、江戸時代に隅田川で架橋された最後の橋である(1774年/安永3年)。当初、大川橋と呼ばれていたが、1876年(明治9年)の架け替えの際に吾妻橋と改名された。かつては、この辺りに「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
駒形橋
竣工:昭和2年(鋼アーチ桁、橋長146.3m、幅員22.0m)
「浅草通り」にあり、橋名は、西詰にある「駒形堂」に由来している。駒形堂は、浅草寺の本尊である観音像が、この辺りから引き上げられたことにより建てられたと言われている。かつては、この辺りに「駒形の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
厩橋
竣工:昭和4年(鋼アーチ桁、橋長151.4m、幅員21.8m)
「春日通り」にあり、橋名は江戸幕府の御米蔵にある米を運ぶ荷駄馬用の馬小屋があったことに由来している。初めて架橋されたのは1874年(明治7年)。かつてこの辺りは「御厨河岸(おんまいがし)」と呼ばれており、その河岸に「御厨(おんまい)の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
蔵前橋
竣工:昭和2年(鋼アーチ桁コンクリートアーチ桁、橋長173.4m、幅員22.0m)
「蔵前橋通り」にあり、橋名は地名に由来している。蔵前の地名は、江戸幕府の御米蔵で大阪・京都の蔵とともに三御倉(みつおくら)と呼ばれていた「浅草御蔵」がこの地にあったことに由来している。かつては、この辺りに「富士見の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
※竣工年月は全て現在の橋のものです。
隅田川の橋とその歴史
1.古くは千住より上流を「荒川」、浅草近辺を「浅草川」、駒形近くは「宮戸川」、両国より下流を「大川」と呼んでいたといいます。昭和51年(1976年)より北区岩淵水門で荒川と分岐したところから下流を「隅田川」と称しています。
2.江戸時代はわずか5橋だけが架けられていましたが、江戸幕府の軍事上の問題から橋の架設には積極的でなく、渡船がその役割をしていました。
(1)千住大橋【文禄3年(1594年)】
(2)両国橋(大橋)【万治2年(1659年)】
(3)新大橋【元禄6年(1693年)】
(4)永代橋【元禄11年(1698年)】
(5)吾妻橋【安永3年(1774年)】
3.隅田川の渡しは昭和39年(1964年)「佃の渡し」を最後に全廃されてしまいました。明治40年(1907年)頃、隅田川には18ヶ所の渡し場があったといわれます。
もっとも古いのは「橋場の渡し」で、承和2年(835年)太宰官符に「渡し船を2隻から4隻にふやせ」と記録にあるように、今の浅草北部は平安時代、すでに水路と陸路の要衡の地であったことがしのばれます。
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