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台東アートギャラリーで嘉納治五郎像を展示します

更新:2019年2月7日

台東アートギャラリーでは、朝倉彫塑館所蔵作品の展示を行っています。
2019年2月10日(日曜日)〜8月9日(金曜日)(予定)は、朝倉文夫作品である嘉納治五郎像の展示を行います。

嘉納治五郎とは

 嘉納治五郎は、1860(万延元)年10月28日、兵庫県神戸市東灘区(旧・摂津国御影村)に豪商の三男として誕生しました。周りの仲間と比べて、身体が小さく非力であった反動から、強さに憧れを持つように、17歳で柔術(古武道)を始めます。稽古に励み技の研究に没頭していく中で、その成果を独自の体制にまとめ上げ、「柔道」と名付けました。
 嘉納は、体育教育に熱心な人物で、1893(明治26)年より通算25年間ほど東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長を務めました。また、留学生を受け入れるなど国際交流の視点を早期から持っていた教育者でもありました。
 1909(明治42)年、近代オリンピックの創始者であるフランスのクーベルタン男爵の求めで、東洋初の国際オリンピック委員会(IOC)の委員に就任。1912(大正元)年、日本が初めて参加したストックホルムオリンピックでは、日本選手団の団長を務め(選手はマラソンの金(かな)栗(くり)四三(しそう)と短距離の三島(みしま)弥彦(やひこ)の2名)、1936(昭和11)年には、1940(昭和15)年の東京へのオリンピック招致を成功に導きました。
 1938(昭和13)年7月、嘉納の死から2か月後、この東京オリンピックは、国際情勢の悪化により「幻の東京オリンピック」となってしまいましたが、その思いは後人に引き継がれ、28年の時を経て結実することになります。1964(昭和39)年、日本初となる東京オリンピック開催時に、柔道は公式競技として採用されました。

台東区との関係

 嘉納治五郎22歳の時、当時の下谷北稲荷町永昌寺(えいしょうじ)住職 朝舜法(あさしゅんぽう) の協力を得て、永昌寺(現在の台東区東上野5丁目1番2号)の中に柔道の道場を開きました。
 出発点となったその道場を、嘉納は「柔道とは術のみを追求するものではなく道を講ずること(教育を行うためのもの)」という意味を込め講道館(こうどうかん)と名付けました。永昌寺には「講道館柔道発祥の地」であることを称える石碑が建てられています。
 世界的スポーツとして親しまれている柔道は、僅か12畳の道場と9人の門下生によってスタートしたのです。

朝倉文夫と嘉納治五郎像について

 朝倉文夫は1883(明治16年)、大分県大野郡池田村(現豊後大野市)生まれ。
19歳の時に、実兄の彫塑家であった渡辺長男(おさお)をたよって上京し、彫塑と出会います。翌年、東京美術学校(現在東京藝術大学)に入学、1907(明治40)年に卒業後本格的に活動を開始。第2回文部省美術展覧会に「闇」を出品し2等を受受賞し、新進気鋭の彫塑家として世に知られるようになります。
 1948(昭和23)年には彫塑家としてはじめて文化勲章を受章。
 1961(昭和36)年台東区名誉区民となります。
 1964(昭和39)年81才で没しました。

 朝倉は1907(明治40)〜1910(明治43)年ころに嘉納と知り合ったと推察されます。
その後も縁があり、嘉納の人柄や骨格などを熟知していた朝倉は、モデルの海外出張中に本作を制作して周囲を驚かせました。
 今回展示する像は、嘉納が全身全霊を傾けた1940(昭和15)年の東京へのオリンピック招致が成功(のちに返上)した1936(昭和11)年に制作されました。しっかりした体幹を感じさせるポーズは、嘉納の柔道家としての「不動の姿勢」を意識したと思われます。

お問い合わせ

文化振興課連携担当
電話:03-5246-1153

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お問い合わせ

台東区役所

〒110-8615 東京都台東区東上野4丁目5番6号 電話:03-5246-1111(代表)
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