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絹本著色東叡山之図 橋本貞秀筆・植村蘆洲賛

ページID:450306507

更新日:2024年2月20日

寛永寺
平成20年登載

 本図は、鳥瞰式の一覧図などで知られる橋本貞秀が制作したもので、貞秀には稀少な肉筆画です。植村蘆洲が画題詩を寄せており、制作年代は幕末から明治初期とみられます。縦85センチメートル、横85.5センチメートル。
 慶応4年(1868)5月15日の上野戦争により焼失する以前の、庶民の花見や参詣で賑わう東叡山寛永寺の様子を、鳥瞰式の構図で描いています。黒門、山王社、清水観音堂、文殊楼(吉祥閣)、大仏殿、にない堂(法華堂・常行堂)、根本中堂(瑠璃殿)、その後方の御本坊の門までを構図の内にとらえており、当時の仕来りとして、東照宮・御本坊・将軍霊廟などは構図外となっています。
 橋本貞秀(1807~1878頃)は歌川国貞(のち3世歌川豊国)の門人。歌川貞秀とも。多様な画題の作品を多数残しました。西洋銅版画を研究するなど学者肌の人で、写実的な作品が多く、鳥瞰式精密描写の一覧図を最も得意としました。横浜絵の第一人者として知られるほか、全国各地の一覧図、地図を多数制作しています。
 植村蘆洲(1830~1885)は幕末から明治にかけて活躍した漢詩人です。家は代々幕府の与力でしたが、壮年のうちに職を弟に譲り、文学に従事しました。下谷吟社を主宰した大沼枕山(1818~1891)に19歳から師事しており、高弟の一人です。蘆洲の住居は下谷鳩組と呼ばれた、御書院与力同心大縄地にありました(のち下谷車坂町。現在の東上野2丁目21番のうち)。明治5年(1872)頃には、この自宅に日新学舎を開き、漢学を教授しています。下谷に住む幕臣・漢詩人であった蘆洲にとって、東叡山寛永寺はゆかり深い場所でした。同18年(1885)8月8日、病により死去。生前、蘆洲は桜を愛好して、墨堤ぼくてい下に転居することを望んでいたため、門人達によって、隅田川の東、向島の蓮華寺に蘆洲の墓は建立されました。枕山が哀悼の碑文を記しています。


絹本着色東叡山之図

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