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田中芳男墓

ページID:469900260

更新日:2024年2月20日

谷中霊園
平成9年登載

 谷中霊園には、田中芳男(1838-1916)の墓があります。東京国立博物館・東京都恩賜上野動物園・国立科学博物館の前身に当たる博物局に勤務し、日本の博物館制度の確立に貢献した人物です。また、明治期開催の5回の内国勧業博覧会(うち3回は上野が会場)など各種博覧会における功績も評価されています。
 田中芳男は、天保9年(1838)信濃国飯田(現・長野県飯田市)で生まれ、のち名古屋の伊藤圭介に入門します。ここで芳男は、本草学を学び、後に博覧会や博物館に発展していく本草会、薬品会を経験します。文久元年(1861)、芳男は圭介に伴われ、幕府の洋学研究機関「蕃書調所」の一施設・物産所勤務のため江戸に移り、慶応3年(1867)には、万国博覧会のためパリに赴き、ジャルダン・デ・プラントを見て、ここの植物園に動物園が付随する、総合研究施設としての博物館を理想とするようになりました。
 明治3年、芳男は、町田久成がいる物産局(後の博物局)で働きます。この2人は、上野の博物館開館まで、ともに同じ道を歩みました。翌年、招魂社(現・靖国神社)で開かれた物産局主催の大学南校物産会は、近代博覧会の最初として画期的な事業でした。
 明治6年、町田久成は、内山下町(現・日比谷公園)の博物館を、樹木が多く池水豊かな地である上野に移転・新設の願いを出します。田中芳男は、当初予定になかった動物園 をも上野に移管するよう努めます。移転先は、寛永寺跡地の清水谷になりましたが、動物園を消滅から救った芳男の尽力は多大なものといえましょう。
 こうした努力により上野に博物館が開かれますが、初代館長の町田久成、2代館長田中芳男はともに7カ月で辞任します。芳男は、この後、内国勧業博覧会など殖産興業面に貢献しました。特に日本最初の産業博物館、明治24年設立になる伊勢の神宮農業館の創立には力を注ぎました。
 芳男は、大正4年男爵の称号を授けられ、翌年6月22日、本郷の自宅で亡くなりました。享年77歳でした。墓碑の高さは2メートルを超え、正面に従二位勲一等男爵田中芳男墓とあり、裏面には、芳男の略歴が刻まれています。


田中芳男墓

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