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【スライド・トーク その1】絵図・写真・随筆に見る台東区の大名屋敷 前半

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更新日:2021年1月14日

1.絵図・写真・随筆に見る台東区の大名屋敷
江戸時代の台東区は、寺社地、武家地、町人地の三つに分けられます。武家地のなかには、幕府の役人の屋敷地(例えば御徒町など)がありますが、大名の邸宅、つまり大名屋敷が多く存在し広い面積を占めていた点は、今まであまりとりあげられてきませんでした。そこで、その中から6つの屋敷をとりあげ、絵図と写真、また随筆からその変遷を見ていきます。


1)秋田藩佐竹家上屋敷  
区南部の台東三、四丁目にわたって南北に伸びる商店街「佐竹商店街」の名称は、明治維新までここに秋田藩佐竹家上屋敷があったことから付けられました。ただし、直接の由来は、佐竹藩邸というよりは、廃藩置県の結果、佐竹家がいなくなった跡地の原っぱの通称「佐竹っ ぱら」です。


東京第五大区小区分絵図 館蔵/明治8年(1875)刊 部分

 上の図の中央の三小区に「下谷竹丁/陸軍造兵司御用地」とあるのが、秋田藩佐竹家上屋敷跡です。しかし、陸軍の施設は建設されることなく、明治18年(1885)頃には「佐竹の原」と呼ばれ、雑草がはびこり見世物小屋が建つ地となったと、次のように仏師・高村光雲こううんは回想しています。


 その頃(明治十八年の頃)、下谷に通称「佐竹原」という大きな原がありました。(中略)私の住んでいる 西町にしまちから佐竹の原へは二丁もない。向側は仲御徒町で、私の宅からは初めての横町を右に曲がり、これを真っ直ぐに行くと生駒屋敷の裏門となる。西町の通りを真直ぐに浅草の方へ向いて行けば左側が七軒町、右が小島町で今の楽山堂病院のある通りとなる。竹町は佐竹の原が形を変えて市街となったので、それで竹町というのであって、佐竹の屋敷を取り払った跡が佐竹の原です。東西に堀があって、南方は佐竹の表門で、その前が三味線堀です。東京が竹町と七軒町の界でこの堀が下谷と浅草の界だと思います。七軒町の取ッつきまでが一丁半位、南北は二丁以上、随分佐竹屋敷は広かったものです。それが取り払われて原となってぼうぼうと雑草が生え、地面はでこぼこして、東京の真中にこんな大きな野原があるかと思う位、蛇や蛙やなどの巣で、人通りも稀で、江戸の繁昌がぶち こわされたままで、そうしてまた明治の新しい時代が形にならない間の変な時でありました(『高村光雲懐古談』新人物往来社、1970年)。  


 自分が住んでいた西町からそう遠くない場所である佐竹の変遷を、ここに詳しく書き記しています。佐竹家の跡にできた原っぱなので「佐竹原」と言われ、昔の面影がなくなってしまった広大な土地の様子をよく観察して記録しています。明治18年、光雲が中心となってこの佐竹の原に大仏をこしらえますが、台風のため失敗に終わります。光雲は最後に、佐竹の原の終焉についても触れています。


 興行物が消えてなくなると、今度は本当の人家がぽつぽつと建ってきたのであります。一軒、二軒と思っているうちに、いつの間にか軒が並んで、肉屋の馬店などが皮切りで、いろいろな下等な飲食店などの店が出来、それからだんだん開けてきて、とうとう竹町という市街が出来て、「佐竹ッ原」といった処も原ではなく、繁昌な町並みとなり、今日では佐竹の原といってもどんな処であったかわからぬようになりました(同上)。


 大名屋敷地が、明治維新を迎えて原っぱとなり、簡易的な建築物がならぶ見世物興行地となり、その後竹町という市街が出来ていったといった変遷の様子を平易な文体で紹介しています。


定点写真「佐竹商店街」(資料No.S49_035_01)/昭和49年(1974)撮影

定点写真「佐竹商店街」(資料No.R01_035_01)/令和元年(2019)12月撮影

 大名屋敷のあった名残ともいえるのが、「佐竹商店街」という名前です。佐竹商店街の風景は、図書館で毎年撮影している定点写真に含まれています。近年アーケードの天井から吊り下げられる旗には、 秋田あきた 蘭画らんが、樋口一葉が御徒町に住んでいた点、変化朝顔発祥地など、商店街とその近辺地域の歴史が記されています。 
 秋田蘭画とは、秋田藩8代藩主・佐竹 よし あつ(号 曙山しょざん。1748-1785)や同藩藩士 なお たけ(1750-1780)が創設した一派で、西洋画の影響を受けた写実的な画風が特徴です。小田野直武は、『 解体かいたい 新書しんしょ』の挿絵を描いた画家としても有名です。曙山や直武は不忍池畔の花鳥画もよく描いており、台東区を舞台にして優れた作品が生まれました。


2)勝山藩三浦家下屋敷

59.10.4 谷中三浦坂(資料No.t_35_10)/昭和59年(1984)撮影
これは、髙相嘉男コレクションにある、谷中一丁目7番地と二丁目1番地の間の細い坂、三浦坂の写真です。坂名は、この北側にあった、美作国(岡山県)勝山藩三浦氏の下屋敷からつけられています(写真では右側)。左側は宗善寺、玉林寺など江戸時代からある寺院の境内地が現在でものこっている地域です。道幅が拡張されずに細いままであるため、風情がある坂道として親しまれています。
この三浦家の屋敷と坂の位置は、さまざまな絵図で確認できます。


駒込より千駄木根津谷中迄絵図(資料No.2015_chi_006)/安永・天明年間(1772~89)写 部分

 中央に大きく「三浦主計頭」とあるのが勝山藩下屋敷です。左上の黄色く塗られた道に、連続する横棒が記されています。これは、坂道をあらわす記号で、つまり三浦坂を指しています。右上に水色に塗られた水路は あい ぞめ川で、現在文京区との 区界くざかいになっています。


谷中本郷駒込小石川辺絵図(資料No.2017_chi_003)/嘉永2年(1849)春刊 部分
 前に載せた資料の約80年後に印刷された絵図です。三浦家の屋敷地には、「三浦備後守下屋鋪」とあり、南側には「△ミウラサカ」と記されています。


3)岡崎藩本田家下屋敷
東都浅草絵図(資料No.2017_chi_006)/文久元年(1861)改正 部分

 図の左から七番堀、八番堀、御蔵役人、本多中務少輔、松平伊賀守と、幕府の施設である米蔵の南隣に、2つの大名家の屋敷が記されています。
 「本多中務少輔」は岡崎藩本多家の中屋敷、「松平伊賀守」は上田藩松平家の上屋敷です。
 この絵図が作られた幕末期は、2つの大名家ですが、これより前、約90年前には3つの大名家が並んでいました。


下谷辺より浅草迄之絵図(資料No.2015_chi_005)/安永・天明年間(1772~89)写 部分

 絵図上方の米蔵の南隣の3家のうち、「本多中務少輔」は、幕末と同じく岡崎藩中屋敷を指しますが、「松平右近将監」は館林藩主の官位、「松平美濃守」は高崎藩主の官位を示します。本多家以外の2家は、別に上・中・下屋敷があるため、おそらくここは かかえ 屋敷やしきかと思われます。


隅田川両岸一覧 下巻(資料No.2019_WA_014) 沢田東江撰/鶴岡蘆水画 天明元年(1781)5月5日
同時代の絵画資料、『隅田川両岸一覧』には、右側の幕府米蔵から続く岡崎藩中屋敷ら3家の裏門の場面が描かれています。隅田川からの荷を揚げるため、階段が設けられているのがわかります。

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