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【スライド・トーク その2】絵図・写真・随筆に見る台東区の大名屋敷 後半

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更新日:2021年1月14日

4)柳川藩立花家上屋敷
上野下谷外神田辺絵図(資料No.2017_chi_001)/嘉永3年(1850)改正 部分

 現在の東上野・上野・台東地域の絵図です。ひときわ大きく目立つのが、中央の「佐竹次郎(秋田藩上屋敷)」、その左の「立花左近将監(柳川藩上屋敷)」、「宗対馬守(対馬府中藩上屋敷)」、「藤堂和泉守(津藩上屋敷)」などです。それ以外にも大小の大名の上・中屋敷が多いことがわかります。このように武家屋敷の区画が直線であったおかげで、現在でもこの地域の道路はまっすぐになっています。
 柳川藩上屋敷は、現在の東上野一丁目にありました。柳川藩の江戸 留守居役るすいやくを務めた人物に、西原 こうという人がいます。彼は、谷 文晁ぶんちょう曲亭きょくてい きん屋代やしろ ひろ かたらとともに、文政7~8年(1824~25)好古趣味の会「 たん 奇会きかい」に参加しました。会の中心人物の山崎 よし しげは、和漢古今の諸書を渉猟して著述家として一家を成しましたが、そのため長者町一丁目にあった自身の本業である薬屋・長崎屋が傾いたといわれています。
 山崎美成のことは、江戸時代の人物事典の一種『書画 わい すい』にも記されています。


書画薈粋 上巻(資料No.2014_WA_019_001)/畑銀鶏著/天保3年(1832)9月刊

 江戸ノ人。 柳河侯ノ藩也。幼ヨリ好古ノ僻アリ。長ナリテ学ニ志シ、和漢ヲ兼古今ニ通フ。其学博洽ニシテ精細ニ考拠アリ。詩文和哥書画篆刻ノ技ニ至ルマデ事ニフレテナセリ。任スル処経済有用ノ学ノミ。蔵書万余巻。著述数部。刊行ノ書文教温故アリ。
 と、一時期柳川藩に仕えていた時期があったとわかります。その関係で、「留守居役」という藩の重鎮職を務める 西原梭江 が会に参加したと考えられます。


5)伊勢津藩藤堂家上屋敷
台東区ではありませんが、千代田区神田和泉町にあった伊勢津藩藤堂家の上屋敷の珍しい使われ方をご紹介します。


東京楽事/東亰詞(資料No.2013_WA_014)/大沼枕山作/明治2年(1869)
本資料は、下谷御徒町の漢詩人、大沼枕山ちんざんが作った漢詩30 編を集めた「東亰詞」に、さまざまな画家が挿絵を加えたもので、画家のなかには、台東区ゆかりの人物が多く参加していました。

 上の図は、服部波山はざんが描いたものです。波山は下谷広小路のうなぎ店の息子として生まれ、根岸に居住していました。明らかに武家屋敷の門構えのところに「病院」という看板が掲げられています。これは明治元年(1868)から、伊勢津藩の藤堂家上屋敷が軍事病院施設として利用されていた様子を描いています。


6)越後高田藩中屋敷
水道橋より御弓町本郷湯嶋下谷辺迄絵図(資料No.2015_chi_007)/安永・天明年間(1772~89)写 部分

 画面左側やや上方に「榊原式部大輔」とあるのは越後高田藩中屋敷です。現在は、旧岩崎家住宅(重要文化財)の敷地となっており、庭園内の石造物の遺構は、榊原家時代の名残と思われます。
 江戸後期の書家・篆刻家の 中根半仙なかねはんせんは、この中屋敷内の役宅に居住しており、医師修行のため江戸に来たばかりの佐渡出身の洋学者・柴田収蔵をしばらくここに住まわせていました。天保14年(1843)10月13日の『柴田収蔵日記』には、
 柳(榊)原侯の中御門屋敷へ入り、門番に中根先生の居所を問ひ、同じ宅へ行たれば男半嶺子出而取次被致、先生と対面。今般入門致し医学執行致度段昨日槇林長作子以願上たる事演舌。御承知に而、 同く宅に住居致事など相談、御新造に対面。右之訳相願ひ国元より持参の土産等を差上げ、先生より近刻の篆刻を出し而被見(『柴田収蔵日記1』平凡社、1996年)。
 医学修行のため、入門を願い、同居の許可を願っています。そして、晴れて住まうことが決まったあとの11月28日、買い物帰りにお屋敷へ入ろうとしたら、門番にとがめられてしまいます。
 今日買ものに出、帰り之節、門番之もの何方に居るもののよし相尋に付、則中根氏に学僕になり居る由演舌す(同上)。
 時代劇で見かけるとおり、門番がいて、不審人物が入り込まないよう、きちんと仕事をしているさまがわかります。

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