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【スライド・トーク その3】名園「蓬莱園」 前半

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更新日:2021年1月20日

2.蓬莱園
秋田藩佐竹家で紹介したとおり、明治維新を迎えると大名屋敷とそれに付随する大名庭園は主を失い荒廃するか、その跡地に明治政府の新しい役所が建てられるなど、変化の時期を迎えました。しかしながら、この松浦家の蓬莱園は珍しく江戸時代の大名がそのまま明治時代にも居住するという形をとりました。そして、寛永9年(1632)に小堀こぼり 遠州えんしゅう によって作られた蓬莱園は、江戸時代の名残りをとどめる名園として人々の記憶に刻まれていきました。ここでは、明治時代に発行された『蓬莱園記』と写真集『蓬莱園』を見ていくことにしましょう。


1)蓬莱園記
蓬莱園は、回遊式庭園であり、浜離宮恩賜庭園などと同じく海の水を屋敷内に引き入れる潮入しおいり の庭園でした。しかし、関東大震災で大半が失われ、現在は池の一部と大イチョウが残るのみの失われた名園です。
しかし、案内記『蓬莱園記』を読むと、その庭にこめられたひとつひとつの景物の意味が、実感をともなって想起できます。


『蓬莱園記』(資料No.2019_WA_001)  橘守部/著
天保5年(1834)稿 明治24年(1891)3月25日刊
本書は、国学者・橘守部が天保5年(1834)になした稿を、明治時代に第12代平戸藩主・松浦まつら あきら が明治24年(1891)に発行したものです。以下に「おぼろの淵」と「 金綺楼きんきろう」の文章を紹介します。文章は、ほとんど平仮名で記されているため、一読しても意味がわかりづらい傾向にあります。少しでも意味が通るために、( )内に漢字を追記しました。


 おぼろの淵 この渕、めぐ(廻)りをいはがき(石垣)にてつき(築)いれられて、そのうへ(上)にあけ(朱)の玉がき(垣)をくみ(組)わたされたる。やがて世にいふみたらし(御手洗)のごとし。
 その玉かきにそ(沿)へて。なでしこをあまたう(植)ゑられたり。そのなが(長)さ、玉がき(垣)のかぎ(限)りにわたりて、なゝひろやひろ(七尋八尋)もつゞ(続)きたるべし。そのさまいといわけなく、ちひさこ(小人)はふ(祝)りがあまたならびて、いつき(斎)まつ(祀)れるやうなる。いとらうたし。
  なでしこの
    いわけなげなるすがた(姿)をば
       神もあはれと見そなはすらん


 (大意)この渕は、周囲を石垣で築き固めて、その上に朱色の玉垣を組み、それが広がっている。すなわち世にいう御手洗(御手洗川。参拝者が口、手を洗い清める川)のようである。
 その玉垣に沿って、ナデシコがたくさん植えてある。その長さは、玉垣の端まで広がって、はなはだ長く続いているようだ。その様子は、ことさらたよりげなく、小人の神官が多く並んで、神事を執り行っているようで、非常に可憐でいとおしい。
   ナデシコのたよりない姿は、神もあわれと御覧になるだろう。


 庭園に彩りを添えるナデシコの花壇を、「小人の神官が集っている」というたとえは、かわいらしい表現です。ただ踊るのが「神官」という職業なのは、本書の著者である国学者・橘守部ならではの視点だといえましょう。
 日本庭園で「ナデシコ」と耳にすると、少々違和感を覚える人もいるかもしれないですが、江戸時代初期に作られた大名庭園も、時代時代でその様相は変わっていきます。『蓬莱園記』の原本が作られた江戸時代後期は、花卉園芸が盛んになり、園芸品種も多く記録されていた時期です。丈夫で、花のバリエーションがあるナデシコは、彩を添えるのに充分であったことと思われます。


次に「金綺楼」の近くにあったバラの垣根を紹介します。
 かたへのはひり(這入)に。あやしきしやうび(薔薇)あり。これもとこよ(常世)にちか(近)き。からくに(唐国)のたね(種)なりとそ。花いとおほ(大)きく。色くれなゐ(紅)のあさらにて。この世のものならずうるは(麗)し。としへ(年経)てかくははひ(延)おほとりぬらん。今はいくもと(幾元)にもわかれて。そのたけ(丈)ひとつゑ(一丈)あまりいつさか(五尺)ばかりもやあらん。枝をか(交)はして垣ね(根)となれり。はね(羽根)をなら(並)ぶるとり(鳥)も。このあたりにこそはす(棲)むらめ。此はひりに。塵をへだ(隔)つといふことを。かゝ(掲)げたまへる。いと似つかはし。
   花むばら(薔薇) とこよ(常世)の風にち(散)るつゆ(露)や
       この世のちり(塵)をふ(吹)きそゝぐらん


 (大意)(金綺楼の)かたわらの入口に、神秘的な薔薇がある。これも常世に近い位置にある。中国の種であるという。花はたいへん大きく、色は薄い紅色で、この世のものと思えず美しい。年月を経てこのように延びて広がったと思われる。今はいくつもに分岐し、その高さは一丈五尺ほどにおよび、枝を交差して垣根となっている。(その棘のため)羽を並べる鳥もこの付近には住めないだろう。この入口には、(バラが現世の)塵を隔てるということを(額等で)掲げてある。まさにこの例えはふさわしい。
 バラの花は、常世の風に散る露のよう。現世の塵を吹きとばしてくれるであろう。


「一丈五尺」は、5メートル近くの高さに相当します。ここではバラが、不老不死の理想郷「常世とこよ」と現世を隔てる垣根になっていることを示唆しています。そして、庭の名前「蓬莱園」の「蓬莱」とは、古代中国で仙人が住む世界をいいます。つまり、バラの垣根は、蓬莱園の入口でもあるのです。
 また、ここでいうバラは、もちろん西洋バラのことではありません。花は大きく、薄い紅色あることから、コウシンバラ(長春)でしょうか。江戸時代後期の植物図鑑『 本草ほんぞう 図譜ずふ』には、コウシンバラの絵が掲載されています。
 以上の2点だけでも、従来知られていない大名庭園の特徴が際立っていることがわかります。


『蓬莱園記』の口絵

 『蓬莱園記』には、口絵が4図、冒頭に配されます。この4図は連続した図柄で、横に並べると、大きな池を中心とした蓬莱園の景物が網羅されています。
 しかし、今回紹介した池から遠い景物は、建物の陰に隠れてしまっているか、あるいは雑然と描かれているため、場所がわかりにくくなってしまっています。

おぼろの淵付近の拡大図です。ナデシコ花壇はよくわかりません。

 金綺楼付近の拡大図です。建物自体も屋根を描くのみで、庭園の入口側、つまり藩主らの住空間は、雲で隠されてしまっています。当然、バラの垣根も見えません。

 上の図は、明治時代の造園家・小沢圭次郎旧蔵「松浦侯園池之図」(国立国会図書館蔵)の部分図です。上方が南側になります。画面上から「 かず とる はま」「 千引ちびきのはし(橋)」「 おぼろの淵」そして横向きに「ナデシコ花」の赤い文字がわかりますでしょうか。ナデシコの花壇は、おぼろの淵の石垣の北側に、たしかにありました。

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