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トップページル・コルビュジエと国立西洋美術館>国立西洋美術館を設計した建築家ル・コルビュジエ
ル・コルビュジエ    
  • 20世紀を代表する近代建築の3大巨匠のひとり(他にはミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライト)
  • 本名:シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ (Charles Edouard Jeanneret)
  • 「ル・コルビュジエ」という名前は、雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」上で使用したペンネーム
  1887(明治20)年10月6日、スイスのラ・ショー=ド=フォンという町に生まれました。父親の家業(時計製造)を継ぐため、美術学校で彫刻や彫金を学びました。そして、在学中、建築を学ぶことを勧められ、建築家としての人生の一歩を踏み出しました。その後、活動の拠点をフランスのパリに移し、数々の建築作品を造り上げ、世界中に名を馳せることになります。それにより、ル・コルビュジエのアトリエには世界中から建築を志す多くの者が訪れました。  
  1965(昭和40)年8月27日、フランスのカップ・マルタンで海水浴中に死去(享年78歳)  

家族構成

ル・コルビュジエ略年表    

1887年(0歳) 10月6日 スイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれる
1900年(13歳) 地元の美術学校に入学し、時計職人になるため彫金等を学ぶ
1904年(17歳) 新設の美術装飾高等科へ進学
教師のシャルル・レプラトニエの影響で建築を学び始める
1905年(18歳) 建築家ルネ・シャパラと協働で「ファレ邸」の設計に着手
1907年(20歳) 初の建築作品「ファレ邸」竣工
北イタリアへの旅行後、ウィーンに滞在
1908年(21歳) パリでオーギュスト・ペレのアトリエに入所し、鉄筋コンクリートの建築技術を学ぶ
1910年(23歳) ドイツ工作連盟を訪問。
ベルリンでペーター・ベーレンスのアトリエに入所
1911年(24歳) 東方旅行(東欧、トルコ、ギリシア、イタリア)
1912年(25歳) 「ジャンヌレ=ペレ邸(白い家)」設計(1913年竣工)
1914年(27歳) ドミノ住宅の開発に着手
1916年(29歳) 「シュウォブ邸」(ドミノシステムを取り入れ、鉄筋コンクリートを用いた最初の住宅)設計(1917年竣工)
1917年(30歳) パリに移り、アトリエを設立
1920年(33歳) 画家アメデ・オザンファンらと雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を創刊
雑誌のペンネームに「ル・コルビュジエ」の名前を使い始める
1922年(35歳) 従兄弟のピエール・ジャンヌレと共同でアトリエを設立
1923年(36歳) 「ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸」設計(1924年竣工)
「レマン湖畔の小さな家」設計(1925年竣工)
「建築をめざして」を出版
1924年(37歳) アトリエをセーヴル街35番地に移設
1925年(38歳) パリ改造計画「ヴォアザン計画」発表
1926年(39歳) 「新しい建築のための5つの要点」(近代建築の5原則)を提唱
1927年(40歳) ドイツ工作連盟(主宰ミース・ファン・デル・ローエ)の招聘で
ヴァイセンホーフ・ジートルンクに住宅2軒を建設
1928年(41歳) 「サヴォア邸」設計(1931年竣工)
モスクワのセントロソユースのコンペ入賞
前川國男がアトリエに入所(~1930年)
1929年(42歳) シャルロット・ペリアン、ピエール・ジャンヌレとの
共同制作による家具をサロン・ドートンヌに出品
1930年(43歳) イヴォンヌ・ガリと結婚
フランス国籍を取得
1931年(44歳) 坂倉準三がアトリエに入所(~1936年)
第2次世界大戦
1943年(56歳) モデュロール開発に着手(→1945完成)
1945年(58歳) 「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」設計(1952年竣工)
1950年(63歳) 「ロンシャンの礼拝堂」設計(1955年竣工)
吉阪隆正がアトリエに入所(~1952年)
1951年(64歳) インド・チャンディガールの建築顧問に就任(都市計画に着手)
1953年(66歳) 「ラ・トゥーレット修道院」設計(1960年竣工)
1955年(68歳) 国立西洋美術館設計のため来日(11月2日~9日)
「チャンディガール高等裁判所」竣工
1957年(70歳) 「国立西洋美術館」設計
妻イヴォンヌ死去(享年65歳)
1959年(72歳) 「国立西洋美術館」(3月竣工、6月10日開館)
1960年(73歳) 母マリー死去(享年100歳)
1962年(75歳) 「チャンディガール州議事堂」竣工
1965年(78歳) 8月27日 カップ・マルタンで海水浴中に心臓麻痺で死去。
ルーヴル宮で国葬

(参考資料) ・ 「ル・コルビュジエ 建築・家具・人間・旅の全記録」(エクスナレッジ)
「建築家 ル・コルビュジエの教科書」(マガジンハウス)
暮沢剛巳著「ル・コルビュジエ 近代建築を広報した男」(朝日新聞出版社)

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ル・コルビュジエ
©FLC  

趣味・ファッション

・趣 味
 スポーツ(水泳、自転車、ボクシング、サッカー)、写真、音楽鑑賞など

・ファッション
 ル・コルビュジエを特徴づける3つのアイテム(トレードマーク)

東京都美術館
蝶ネクタイ

神奈川県立近代美術館
黒縁の丸メガネ

神奈川県立近代美術館
パイプ

【主な功績】

 ル・コルビュジエは、「ドミノシステム(※)」の考案や、「新しい建築のための5つの要点(※)」、「モデュロール(※)」など、新たなアイデアを提案しました。それらは20世紀以降の建築・デザインに多大な影響を与えました。また、建築界のリーダーの一人として活動しただけではなく、絵画、版画、彫刻などの芸術作品の制作をはじめ、インテリアのデザインや執筆活動にも取り組み、数多くの作品を残しました。

ドミノシステム・・・鉄筋コンクリートによるフレーム構造で、スラブ、柱、階段のみを建築の主要素とするもので、石積み・レンガ積みによる西洋の伝統的な建築からの転換を図る。  
新しい建築のための5つの要点(近代建築の5原則)・・・近代建築を成り立たせるための5つの要点として、1.ピロティ、2.屋上庭園、3.自由な平面、4.横長の窓(水平連続窓)、5.自由な正面(ファザード)を提案する。  
モデュロール・・・人体の寸法と黄金比率から考え出した基準寸法。人(身長183cmのヨーロッパ人男性)が片手をのばした高さ(226cm)を住宅の天井の高さとして最適と考える。  

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ル・コルビュジエと日本への影響    

建築家ル・コルビュジエが日本に及ぼした影響

 フランス、パリのル・コルビュジエのアトリエには、建築を志す多くの者が世界中から訪れました。中でも、日本からは、ル・コルビュジエに師事した、前川國男、坂倉準三、吉阪隆正の3人が、「日本の3大弟子」として、帰国後、日本の近代建築に大きな功績を残しました。 国立西洋美術館の建設には、ル・コルビュジエが基本設計を行い、3人の弟子が実施設計を担当しました。その後もル・コルビュジエの影響を受けた建築家は数知れず、今なお、多くのル・コルビュジエ・ファンに愛され続けています。

ル・コルビュジエの3大弟子、前川國男、坂倉準三、吉阪隆正

東京都美術館
東京都美術館
設計者:前川國男

神奈川県立近代美術館
神奈川県立近代美術館
設計者:坂倉準三

   
東京都美術館
アテネ・フランセ
設計者:吉阪隆正
 

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ル・コルビュジエの素顔    

 20世紀の建築の巨匠ル・コルビュジエは、しかし、「孤高の天才」といった称号が似合うような特別な人ではありませんでした。ただ、誰よりもものづくりに熱い情熱を注いだ人でした。
 彼は1887(明治20)年、スイスの山間の街ラ・ショー=ド=フォンに生まれました。この街は高級時計の生産地として知られ、ユネスコの世界遺産になっています。彼は地元の美術学校に通い、デッサンの先生の資格を取得しました。独学で学んだ建築の世界で偉大な足跡を残す一方で、絵画への情熱も生涯持ち続けました。
 1917年、芸術の都パリに活動の場を移しますが、アカデミーの教育を受けていない彼にとって、そこは厳しい試練の場でした。辛うじて生計を立てながら、画家オザンファンとともにピカソらの流れをくむ「ピュリスム(純粋主義)」と名付けた芸術運動を展開し、総合芸術雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」を発行。世の中へ発信し続けました。徐々に彼に共感した人たちからの依頼を受けて住宅を手掛けるようになりますが、この時期の絵画作品にみられる幾何学的な構成や、薄板が重なるような空間表現、くすんだ淡い色彩は、いずれも彼の建築に直結する表現でした。
 20年代末以降、絵画の傾向は大きく変わり、シュルレアリスティックな作品を描き、やがて、彼の夫人を連想させる豊満な女性を多く描くようになりますが、こうした人体や自然物への関心、柔らかくたっぷりとした形態表現も、彼の建築に反映されていきます。
 家具や車、女性のドレスのデザインまでも試みた彼の多才ぶりには驚きますが、さらに戦後になると、表現手段は多岐にわたります。それは彫刻、タピスリー、パピエ・コレ(紙の貼り混ぜ作品)、版画、エマイユ(エナメル画)等でした。一つの分野にとどまらず、創作し続けた彼のエネルギーには感嘆させられます。
 美術の流れが抽象表現主義やオーバーオール絵画へとすすんでいく50年代にあって、象徴的なモチーフを多用した物語的な絵画へ向かった彼は、美術史上では特異なポジションにあったと言えるでしょう。
 この頃の美術作品は、造形的、色彩的に彼の建築と共通点があるだけでなく、壁に刻まれ、空間に置かれるなど、建築と直接結びつくものもありました。たとえば、国立西洋美術館の1階ホールは彼の写真壁画で覆い尽くされる計画でしたし、チャンディガール(インド)には「開いた手」のモニュメントが建てられました。彼は様々な分野での創作を建築という総合芸術に昇華させようとしていたのです。
 彼は、1927年の国際連盟コンペで入選したものの採用されなかったとき、著書を通してフランスのアカデミーに宣戦布告を行ったほど表向きは戦闘的ですが、よく母の元を訪ねて甘えたり、1952年に竣工したマルセイユのユニテが数々の非難を浴びたときには、すっかり凹んで不安な思いを母親に切々と訴えたりしていました。家では夫人に顎で使われていたという証言もあります。そして、夫人と母親を相次いで亡くした時には、声を掛けるのも 憚(はばか)られるほどの憔悴(しょうすい)ぶりだったといいます。
自分は英雄であると信じ、苦境に立たされると自ら闘争心をかき立てながら独創的な建築を作り続けた彼の、隠れた素顔や詩的な世界は絵画を通して垣間見ることができます。また、建築では表現しきれない形や色の実験も、絵画や彫刻によって行われました。制約の多い社会的芸術ともいうべき建築に対して、絵画は感性を自由に表現できる手段であり、建築と絵画は彼の創作活動の両輪を成していたのでした。それだけでなく、「自分の建築は絵画という運河を通ってきた」という趣旨の発言からは、絵画が彼の建築の成り立ちに必要不可欠であったことが窺(うかが)えます。
 絵画も建築も、彼の創作活動の全てを担ったのは、彼の大きな分厚い手でした。彼は常に自らの手を動かし続けることによってあらゆるものを作り出しました。だからこそ、彼の作品からは温もりが感じられるのでしょう。 (文:大成建設ギャルリー・タイセイ 学芸員 林 美佐)

「開いた手」のモニュメント マルセイユのユニテ・ダビタシオンのピロティ
「開いた手」のモニュメント
(チャンディガール・インド)
写真:丹下誠司
マルセイユの
ユニテ・ダビタシオンのピロティ

(フランス)

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