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黒門町町会(くろもんちょうちょうかい) ※

ページID:940804234

更新日:2022年6月17日

地区

上野地区

町会の区域

上野1丁目1~19番

上野1丁目

町会の紹介 (※)

 黒門町町会は、上野一丁目にある約400世帯の町会です。千代田区、文京区に隣接し中央通りに面して、湯島天神から続く学問のみち、古くからある箭弓稲荷や黒門小学校もあり、歴史と文化が残る町であります。
 御徒町、秋葉原の繁華街も近く買い物等にも便利で、また地下鉄の駅が隣接し交通の便が良いこともあり、近年ビジネスの拠点にもなり、マンションも多く建設され人口も増えてきております。都心でありながら休日などは静けさも感じられ、また不忍池や上野公園も近く散策も楽しめる、便利で住み心地が良い町であり愛着をもって暮らしています。

町会の歴史 (※)

 町会の創設は明治33年(1900年)に「上野東西黒門有志会」を組織しましたが、東西意見が異なるため分離して、翌年(1901年)下谷区「西黒門町効睦会」という名を掲げて発足しました。
 大正12年(1923年)の関東大震災においては、救助物資の配給等を行い、玄米、ジャガイモの配給を始め、バラック用建築材の払い下げ、火災保険の請求、電気・水道の復旧、迷子の保護者引き渡しなど、幅広く積極的に取り組みました。
 西黒門町町会は太平洋戦争後、米国の占領下において一時中断するものの、昭和26年(1951年)に再建、その後活動を重ね平成23年(2011年)には戦後再建六十周年式典を挙行しております。なお昭和60年(1985年)には町会名を「黒門町」へと変更し、その名称は今日まで続いています。
 また平成30年(2018年)には災害に強い建物をとの思いで町会会館を新築し、災害に見舞われた際、ご家族の方たちとの連絡拠点とし、更に飲料水も備蓄して初期の対応にあたりたいと考えております。

町会名の由来 (※)

 「黒門町」という町名の由来は、江戸時代まで遡ります。
 時は寛永2年(1625年)、徳川三代将軍家光の治世、東叡山寛永寺の創建に伴い、翌年(1626年)、その門前町として黒門町が造られました。
 この時の町名は、既に寛永寺の総門であった黒門の前に「上野元黒門町」として町が形成されていたため、「新」の字を冠して「上野新黒門町」と命名されました。このことは『御府内備考』(江戸時代後期における江戸市中の地誌)に「東叡山御成門前地に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と記されています。
 また「上野新黒門町」はもともと御成道(万世橋から上野公園に至る現中央通り)の両側に形成された町でありましたが、明治2年(1869年)、御成道を境目に東西二分され、「上野西黒門町」、「上野東黒門町」として新たに発足しました。
 その後、上野西黒門町は明治5年(1872年)、伊勢亀山藩石川家上屋敷と武家小屋敷を合併し、上野東黒門町も壬生藩邸を合併したことでそれぞれ町域が定められ、今日へと到る原形となっています。また明治44年(1911年)には、「上野」の二文字を略してそれぞれ「西黒門町」「東黒門町」と改められています。戦後においては昭和39年(1964年)、住居表示制度により西黒門町は「上野一丁目」、東黒門町は「上野三丁目」に編入され、今日まで続いています。
 尚、江戸寛永時代から明治維新まで230年以上続いた石川家上屋敷の「銀杏稲荷」は、町内鎮座の「火伏の神」下谷箭弓稲荷として現在も存立しております。

主な活動 (※)

4月 (春季)「交通安全運動」実施
5月 「黒門町町会通常総会」開催
   五條天神社例大祭
   下谷箭弓稲荷神社例大祭
6月 「黒門長寿会総会」参加
8月 上野地区「納涼大会」(黒門小学校校庭)共催
9月 (秋季)「交通安全運動」実施
12月 「町内歳末警戒」実施
1月 「新年祝賀会」開催

(毎週水曜日) 「町会集団回収事業(段ボール、新聞・雑誌等の資源回収)」実施
(祝日) 黒門小学校校庭に「国旗」掲揚 など

町会のホームページ

加入等のお問い合わせ

上野地区センター
池之端1丁目1番12号
電話:03-5815-8623

(※)

(※)の記載がある項目は、町会の協力のもと作成しました。

お問い合わせ

区民課区民係

電話:03-5246-1122

ファクス:03-5246-1129

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