金色養蚕大明神碑
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更新日:2025年5月22日
妙音寺
令和7年登載
金色養蚕大明神とは、養蚕の守り神です。このような養蚕の起源として伝承される神は「金色姫」として、江戸時代における養蚕業の普及に伴い、関東甲信越を中心に広く信仰を集めました。
本碑は、元治元年(1864)に妙音寺に設置すべく造立されました。妙音寺は伎楽山と号する日蓮宗の寺院です。開山は安立院日雄で、慶長15年(1610)に馬喰町に創建されました。明暦3年(1657)、明暦の大火を機に当地へ移転しました。かつて同寺の弁天堂の背後には大きなため池が広がっており、「池の妙音寺」と称されました(『御府内寺社備考』)。
本碑裏面の刻銘により、発願主は、尾張屋清次郎、武蔵屋勝五郎、近江屋善兵衛であること、これに京都、大坂、左海(堺)、江州長浜、江戸、武州秩父、同図師、同津久井、相州磯部、上州桐生、羽州米沢といった、全国規模で各地の糸問屋がかかわったことがわかります。
さらに、日蓮遺文の研究に従事した医師の小川泰堂(1814~78)や、糸問屋の中でも泰堂の活動に感化された明石屋源兵衛・近江屋与左衛門など、日蓮宗の信仰に基づくネットワークも見られます。特に近江屋与左衛門は、妙音寺の有力な檀家でした(『明細簿』)。
本碑は、江戸のみならず東は米沢、西は京都大坂と、広範囲にわたる地域の糸問屋が結集、協賛して造立に至った碑であり、当時の糸問屋の広域な連携が知られる点で極めて貴重です。さらに、小川泰堂ら日蓮宗徒としての人々も関係しており、こうした関係により妙音寺が造立の地として選択されたと考えられます。加えて本碑の制作には、寛永寺の絵所として活躍した絵師の神田宗庭(9代要信)や、谷中の石工である広群鶴らが関与しており、彼らの作例としても重要な遺品です。
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