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木造阿弥陀如来立像(廣楽寺)

ページID:612677837

更新日:2024年2月19日

廣楽寺
平成10年登載

 平安時代中期から鎌倉時代は、天災・飢饉や戦乱が続き、仏の教えが絶えてしまう世、末法まっぽうの世と考えられていました。そうした時代にあって、貴賎を問わず多くの人々が世を厭い、極楽浄土への往生を願いました。当時の往生をのぞむ人々の心をもっともとらえたのが、極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来です。阿弥陀如来を念じること(念仏)により、臨終の際には如来自らが臨終者の元に来て、極楽浄土へ迎えてくれる(来迎らいごう)と考えられたためです。
 こうした教えを浄土教じょうどきょうといいます。平安時代中期に比叡山延暦寺の源信げんしんという僧侶が浄土教を強く唱えると、以後の延暦寺は浄土教を学ぶ僧侶たちの拠点ともなりました。やがて、延暦寺で浄土教を学んだ法然や、その弟子の親鸞は、さらに浄土教を奥深くきわめるとともに、多くの民衆に広め、後にそれぞれ浄土宗・浄土真宗の開祖と仰がれるようになりました。
 当時の人々の極楽浄土への希求、阿弥陀如来の来迎を願う気持は、仏像としての阿弥陀如来の形にも変化をもたらし、鎌倉時代初期の仏師快慶によって、左足をやや前に踏み出した来迎形らいごうがたという阿弥陀如来像が定型化されました。
 廣楽寺の本尊木造阿弥陀如来立像は、総高81.4センチメートル。典型的な来迎形の阿弥陀如来像です。また、輪郭を卵形にした温和な顔、彫刻技術の堅実さは、同形の阿弥陀如来像の中でも優れたものに属しています。このようなことから、本像の制作年代は鎌倉時代中期頃(13世紀半ば)と考えられます。
 本像は、廣楽寺の伝承によれば江戸時代初期には大久保右京亮うきょうのすけ教隆という人の所有でしたが、教隆は寛永9年(1632)東本願寺13世光従こうじゅうに願い、浄土真宗の仏像として認める旨の裏書を受け、当寺の本尊に招来したといいます。

お問い合わせ

生涯学習課文化財担当(生涯学習センター)

電話:03-5246-5828

ファクス:03-5246-5814

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